2021年6月、母がアメリカで急逝しました。
母は、出産する私のサポートのため、1ヶ月の滞在予定でアメリカに来ていました。
そして、私が出産した10日後にアメリカの病院で息を引き取りました。
まさかこんなことが自分に起こるなんて。
母の死は身近な人に伝えるのみで、口に出すことができませんでした。
口に出すと記憶がフラッシュバックして怖かったからです。
1年以上経ち、やっと落ち着いて話せるようになってきたと思います。
同時に記憶も薄れてきたということなのでしょう。
記憶が薄れ切ってしまう前にこれを残しておこうと思います。
母がアメリカに到着した日、長男は大喜び。
こっちこっちと自分の家を紹介し、お土産をあけ、2日ほどは夜遅くまで興奮状態で過ごしました。
その後も出産までの2週間弱、母とは買い物に行ってお土産を買ったり、長めの散歩に出産病院の方まで歩いて行ったり、長男のお迎えに行ったり、公園に行ったり、と和やかに過ごしました。
長女の出産は前駆陣痛が随分長かったです。
夕方から強まるものの、朝にはひくという前駆陣痛が2日ほどあり、ヤキモキしていました。
ついに入院という日には、先に眠ってしまった長男を母に預け、夫と2人で病院に向かいました。
無事の出産。
Lineで報告し、2、3回ほどは、母と長男と電話で会話をしました。
今日は〇〇したよ。というたわいのない電話。
暑い日が続いており、暑さには気をつけてねと言っていたのを覚えています。
アメリカは入院が短いので2泊で退院。
経産婦だからなのか、無痛分娩効果なのか、私はほぼ疲労もない状態でした。
身体も心も軽く、1人が加わった新生活が始まります。
水曜日、猛暑だったその日は、慌ただしい日でした。
朝は長女の検診、昼は母と夫と長男が買い物でお出かけ。
夜は保育園のオンライン会議に私が出て、わやわやと過ごしていました。
オンライン会議が終わってほっと一息、1人で遅めの夕食を食べながら、やっとゆったり母と話していました。
暑い日だったので冷房が強めに効いていて、「体温調節が難しい。ちょっと耳の奥が痛いような気がする」と言っていたのを覚えています。
次の日、母が40度近くの高熱を出し、腰の痛みを訴えました。
話すのもつらそうで、なすすべもなく、その日はずっと寝て休んでもらいました。
その次の日、腰の痛みはあるものの熱が下がりました。
母から妹へのラインメッセージも送ることができ、ほっと一安心して「あとはゆっくりしてね」と話しました。
ところが、そのまた次の日、母の容態が一変しました。
腰はさらに痛みが増したようで、また熱が出ました。
朝少し混乱したような行動がありましたが、その中でも病院に行くと言っていました。
夫は用事があり外出。夫が帰ってきたら病院に行こうと、病院に行くための保険の確認をしつつ、子ども達の相手をしつつ過ごしていました。
しかし、母のおかしな行動も徐々に増えていきます。
私も焦ります。
夫がまもなく帰る直前、別の部屋で妹に状況を伝える電話をしていました。
妹との電話を終え、ふと胸騒ぎがして部屋に戻ると、目を開いたまま反応をしない母がいました。
パニック。
ちょうど夫が帰ってきて、そこから911に電話、救急車がきてそのまま病院に連れて行かれました。
母は感染症にかかっていました。
状態が悪くなり、敗血症になっていました。
最初は出産したMt AurbunのERで、その後、Beth Israel病院のICUへと転院しました。
しかし、3日ほどの懸命の治療も虚しく、母はアメリカの地で息を引き取りました。
その後の一週間は、父が渡米したり、火葬とオンラインお別れ会の準備をしたり、慌ただしく過ごしました。
生まれたばかりの子には、搾乳した母乳を夫に飲ませてもらい、長男にはずっとテレビを見ててもらい、なんとか過ごしていました。
まさか、こんなことが自分の身に起こるなんて思いもしませんでした。
そこから1ヶ月は、ただただ目の前のことを考えることでいっぱいいっぱいでした。
というより、先のことを考える気力がありませんでした。
身軽になった身体で歩いていると、”本当はこの身体でこの道を歩いて、残りの2週間を母と楽しく過ごす予定だったのに”という気持ちばかりが湧いてきて悲しかった。
ボストンローガン空港にお見送りに行って、ありがとうと送り出す予定だったのにそれが叶わないことが辛かった。
待ったなしにお世話をしなければいけない子ども達がいることは、気が紛れてくれて救いでした。
2ヶ月が過ぎた頃、やっと少しずつ外に出れるようになり、長男のお友達と遊んだり、近場のホテルに一泊だけ泊まりに行ったりしました。
しかし、休息のつもりで行ったお泊まりも、自宅に帰ってほっとした瞬間に、この安息をないまま母には旅立たせてしまったのかと辛くなっていました。
その後も、哀惜、葛藤、後悔といった感情が順に繰り返しながら押し寄せてきました。
一緒に〇〇したかったという、もうない未来を思っての哀惜。
ボストンの街をもっと楽しみたかったし、母には日本に帰ってほっと一息して欲しかったし、今後も自分や自分の子ども達の写真や成長を報告したかった。
そういった、これからも続くと思っていた未来が突然途絶えてしまったことに対する哀しみがありました。
特に、亡くなって3、4ヶ月くらいがピークだったと思います。
時が経ち、母のいない状態が日常になってくると、そう思う頻度は減ってきました。
それでも、妹家族や、長男や長女の成長に思いを馳せると、これを共有したかったという気持ちがどうしても出てきます。
存在がなくなったということを受け入れられない葛藤。
魂でも残っててくれればいいのにという思う反面、もう個体としてなくなったという現実を受け入れなければいけないということに悶々としていました。
幽霊や魂という存在はあまり信じられないのですが、それでもやはりもう一度会いたい、会えないだろうかという思いがありました。
もう存在しない。でもいてほしい。
そんなジレンマがふつふつと湧き上がる時期でした。
そしてそんなジレンマをを反映するように夢に何度か母が出てきました。
ときには、幽霊のような存在として。
ときには、病気から回復した姿で。
夢の最後には、あぁ、亡くなったんだよと思う自分がいて、あぁ、私は死を受け入れているんだなと起床後にふわふわと考えていました。
どうすれば回避できたのだろうかという悔やみ。
これが一番長く続きました。
一周忌の頃までぐるぐると続いていました。
看取るまでの最期の数日間の姿と同時に思い出されるので、考え出すと涙がでます。
暑い中買い物に行くのを止めればよかった。
もっとしっかり母に症状を聞き出せばよかった。
もっと情報を調べればよかった。
この症状では様子見してはいけないという判断ができればよかった。
自分に余裕がないことを自覚して、日本にいる父や妹にも調べて貰えばよかった。
知り合いのお医者さんに連絡してみればよかった。
「母は病院が好きじゃないし嫌がるかも」とか「旅慣れしてるし持病もなく健康体」という躊躇や思い込みを払拭していればよかった。
旅先での旅行保険を使った経験が先にあればよかった。
とにかくもっと早く病院に行く判断をできればよかった。
悔やんでも取り返せないことは分かっているものの、ふとこの感情が押し寄せてきては悔恨の念に苛まされていました。
そんな感情と付き合いながらも1年。
2022年の一周忌前後には父がアメリカへ遊びにきました。
命日の夜には母の大好きだったビールで献杯し、あとは思い切り観光しました。
母と一緒にいきたかった場所も訪れ、多少の寂しさを胸に抱えつつ、子ども達の存在もあり、楽しい時間を過ごしました。
不思議なことに一周忌が過ぎた日から急に負の感情も減りました。
一周忌を境に喪が明けるといいますが、まんざら慣習というだけでもなく、1年という期間が喪失を超えて前進し始める頃合いなのかもしれません。
これを書いている今、母の死から1年4ヶ月になります。
未来のことを考える時、そこに母の存在が含まれないことに寂しく悲しく思います。
でも、突き上げるような悲しみも、最期の光景が否応無しにフラッシュバックしてくることも、もうなくなりました。
数ヶ月後には久しぶりに日本に一時帰国します。
母の姿や声がない実家に帰るのは悲しく怖いです。
でも、やっと母の前に家族で集まる機会を持てることにホッとします。
ずっと、大切なことを果たせていない宙ぶらりんな気がしていました。
父も妹も私も、まだ声に出せない気持ちもあるかもしれません。
それでも、喪失後の月日をそれぞれ無事に過ごしてきたこと、お互いに労りあえれば良いなと思います。